最後の講義 完全版 福岡伸一

 

地球の起源や生命の誕生について改めて学んで、より一層命に価値はないと思うようになった。というより

命は無価値という思想を正当化するための情報を収集した

という方が正しいんだと思う。

 

 

こんな考えをもって看護を行うのは、患者にとって不誠実なんじゃないかとも思ったけど、私にとってはきっと必要な思想だったはず。そこでこういう考えに至るまでの体験を整理してみる。

 

 

新しい病院に来てからというもの寝たきり老人を何人もあの世へ送った。使命や役割、楽しみをなくしただ生存だけさせられている人の看護を行った。一つの命が同じ価値だと信じてきたけど、実際は行われていることは違う。おむつ交換一つとっても、もし余命が同じであっても赤ちゃんと寝たきり老人では、ケアにかける量や思いが違うじゃないか。

 

これは病院に限ったことじゃなくて政治、戦争やコロナ禍でも顕著に表れてる。

 

そもそもなんで私たちは命を等しく扱うことが正しいと思うのか。理性に支配された人間よりも本能で生きる動物は、命に優劣をつけて種族として生き残っているように思える。

 

 

理想と信じていた終末期からほど遠い現実を目の当たりにして、看護師としての自分の存在意義など考えるようになってしまった。そこで人の命は無価値という意味で平等という仮説が必要になったんだと思う。

 

 

 

 

 

そして、面白いことにこの宗教的/哲学的な扉を開いてから世界の見え方が少し変わった。

 

 

社会人としてとか人間としてとか、あらゆる規範や道徳が意味のないものに思えた。だって私は地球のひとつの生命体としてただ代謝して存在してるにすぎないじゃないって。

 

つまり、時間を有意義に過ごすとか、生産性のあることをするとか、どうでもいい。どんな生き方をしようとどんな思想を持ってようと構わない。ただこの自分勝手に生きていいという考えの先には、人殺しが許されるという世界線になるからあんまり考えすぎるのはやめた。

 

 

 

社会が決めた価値や幸福から解放された私は、再度自分の心に従って生きたいと思うようになった。でも今度は、何を自分が本当に求めているのか分からなくなってしまった。

 

好きなことは十分わかってる。

家族、恋人と日々を共有して愛を確認し合うこと。幸せに暮らしてもらうこと。そのために自分も努力すること。

あとは地球の鼓動を感じること。風、雨、嵐、花や木、波の音、人間とは違う進化をとげた生き物、山や海の世界、、

おいしいものを食べること。食べたことない外国の食べ物や飲み物、ずっと変わらない味。

 

こんなにたくさん幸せを感じれる物事が身近にあふれているのに、だからこそこの世界に退屈する時が来るのかなって不安になってしまう。こんな風に考えちゃうのは数年日本の外に出れてないし新しい魅力的な人にも出会えてないからだと思う。

これら当たり前の幸福に、もし魅力を感じれなくなっちゃったらって考えるとこわい。心落ち着く場所でも、発見した時は刺激的でしょ?その刺激に対していつか感動しなくならないかな。

 

 

そんな時

こういった私の一連の思考をなぞるように整理してくれる本と出合った。次回