退職日前日、激務に撲殺された自我

この半年間は何だったんだろう。別の誰かの人生を歩んでた気がする。

業務をこなして患者の命を守ることだけに必死で、楽しいとはなかなか思えなかった。

しいて言えば、仕事終わりに夕日がきれいに落ちる瞬間を見れたとき、砂浜で波の音を聞いているとき、花火が近くで見れたとき、本当にここにきてよかったと思えた。

少ない休みの中で必死に自分の人生を生きようと遊びに行ったりしたけど、疲れは取れないし、常に仕事のこと、勉強しなくちゃっていう強迫観念にも近い想いに囚われていて。休みの日が本当に貴重だった。

休日は、朝の陽ざしを美しいなと思いながら、野菜と植物に水をやる。雑草や双葉を抜き、知らない間に果実が成長しているのを発見する。めだかの水槽に目をやる。まったく観察していなかったことに反省して、みんな生きて泳いでいることを確認して安堵する。部屋を見渡して、散らかしたものを整理する。たまった洗い物を片付けて、洗濯機を回す。最高の日光をあびる洗濯物が気持ちよさそう、自分も外へ出ようと思う。夕暮れになると今日はどこの浜で夕日を見ようか考えて、自転車を走らせる。恋人の声が聞きたくて電話する。夜は最小の明かりで映画鑑賞する。

 

出勤日は

朝起きて15分で用意して出かける。お腹はすいてないから、コーンフレークとか野菜ジュース、ヨーグルトだけ。朝から1時間の無給前残業をして、始業開始から走り回る。業務に追われて患者とまともに話す時間もない。時間処置に追われて気が付いたら昼休憩の時間。遅れて休憩に入り、空腹なことに気づいて早食いする。午後からは水分をとる時間、トイレに行く時間もなく、定時を迎える。残務の処理。毎日見る患者は違うけど、同じことを繰り返している。夜8、9時まで無給で残る日もあった。

 

対人関係でしんどいこともあった。

指導者はとても情熱的な人だった。看護師という職業に重すぎる誇りと責任をもっていて、反対に看護師という職業を選びながらお金のために働いている人や、自己研鑽しない人、仕事に不満を持つ人を嫌悪していた。理論を学習して根拠をもとに看護師として患者の人生には寄り添えていたけれど、他の人間の人生には寄り添えてなかった。休日は勉強して、休みは3日以上あると仕事したくてうずうずすると自慢げに言っていたけれど、自分の人生を謳歌できていないかわいそうな人だと思ってた。職業人として尊敬すべきことはたくさんあったけれど、押しつけがましいほどの教育と看護観はうんざりで、私は心身ともに疲弊し追い詰められた。指導者の圧で苦しめられることも多かったけれど、一番つらかったことは、自分のダメなところに毎日向き合わなければならなかったこと。いっぱい工夫してみたけど求められていることができなくて、自分に何度もがっかりした。指導者は患者にとってはとてもいい看護師であり、圧倒的な根拠をもとに看護する姿は、学ぶべきことがたくさんあった。(人生の先輩、指導者としては実に劣っていたと思うけれど)

 

 

でも明日退職する身になって、不思議と何も後悔の念はない。むしろさみしい感じ。明後日からは、ひとりで自分で新しい人生を選んでいかなければいけない。自分らしくいられなくてしんどくて濃かったこの半年を、なかったことにして次に進むのかな。

自分の人生は結局自分しか知らない。学生の時から変わらずそばにいてくれる恋人、友人、これからも人生を共有したい同期もいるけど、自分のことは自分が一番よく知っててるはず。なのに、これから何をしたいかについては頭に真っ白になっている自分に驚いている。

この半年、

こんなに勉強したことなかった。

こんなに小説が読めなかったことはなかった。

ニュース、時事ネタなんか追っている余裕はなかった。

美容に気を遣おうと思えなかった。

自分の大切な人の支えになれなかった。

こんなに自分らしくない人生を歩んだことはなかった。でもどうしようもないことなんだ、って諦めたのも初めてだった。

 

「体をしっかり休まないと心のことはかんがえられない」って尊敬する先輩は言った。

今後のことはまた考えよう。おやすみなさい。