日本人らしくいることの息苦しさと誇りについて

海外に旅行へ行って現地の人に、無視されたり騙された経験もあるけど、圧倒的に優しいなと感じることが多かった。日本から来たというと、「日本人は優しいから好きだよ」といわれることが何度もあったけど、その度にあなたの国の人の方がよっぽど優しいし生きやすいよ。と思ってた。

 

私たち日本人は、他人に○○らしさを求めてしまいがちだと思う。

 

店員らしさ。

子供らしさ。女性らしさ。年齢相応。

 

現代にも強く名残を残している「お客様は神様」精神。

好きな服をなかなか着れない。私自身服にこだわりは全くないつもりだったけど、海外旅行に行ったときに好んで着ていた服は、日本では恥ずかしいと思って着れなかった。肌の露出や季節感、年齢や立場にあった服装をしなくてはと思った。人の目をとても気にしていることに、私自身驚いた。

海外のドラマや映画、動画をみていると、日本では自分の子どもにも子どもらしさを求めているんだなぁと強く感じた。それはドラマの子役の役回りや物語の設定を比べるだけで歴然だ。

 

日本のように資本主義を経て民主主義になった国は多くあるのに、どうして日本ではリベラルの考え方がいまだに染みついていないんだろう。

 

 

 

私は日本で幸せに生活を送りたいから、居心地よく人と接するためにこの原因が何か知る必要がある。

 

 

ヒンドゥー教を信仰するインドネシア・バリで、裏がない人々の優しさにふれてから、これは宗教の問題じゃないかと考えて、宗教の勉強をしてみた。

 

 

宗教と思想の関係は深い。というか、インド仏教の変遷を見ていたら、その土地の人間が持つ思想によって、宗教を変容させているように感じた。

 

インドでは人は迷惑をかけるものだから人の迷惑を許しなさい。

 

中国では家族を重んじる。

 

 

日本は稲作の文化のせいで和を重んじる。

 

日本は国民全員が信仰する強力な宗教がない珍しい国だ。宣教師がキリスト教を伝来したとき、この土地には根付かない。と思ったらしい。八百万の神がいて草木山川人もみなともに成仏するこの国では、一神教は受け入れがたかった。キリスト教が受け入れられなかった原因には時の政権の国策も大きく関わっているんだけど。一方で仏教は権力者が信仰することもあったが、そもそも本来のインド仏教では草花は非情(心なきもの)で転生したりしない。

 

輪廻せず消滅することが人生最大の幸福と考えていたインド仏教が、祖先を敬う儒教が浸透していた中国へ行くと、墓参りやお盆の霊迎えを始めた。インドでは罪でも至親容認の中国へ行けばお咎めなし、なんてことも。

西洋文化も似たようなもので、ユダヤ教キリスト教カトリックプロテスタント様々な信仰が派生した。その影響は大きく、翼をはえた天使しかり天女も、人に優れた能力を許さない国日本へ行けば、翼はなく羽衣になったり。

 

これらの変遷をみると、宗教は人間による人間のためものだと思わざるを得ない。

 中国ではご立派な儒教があるけど、民間には悪鬼や呪いなんかがでてくるおっかない道教が浸透していた。同じ土地に住んでいても階級によって信仰するものが違っていたなんて、ほんとに宗教は自由であるな。と感じた。

 

 さて、宗教によってその人が何を大事にしているのかどのような生き方が理想とされているのかがよく分かった。しかし、肝心のところが分からない。日本人は元来多神教なのだ。一神教に比べて強制力が弱いと思う。この土地や空気が強く求める○○らしさは別のところからきているようだ。

 

 

こんな感じでわだかまりを抱えて月日が過ぎて、今回ようやく一冊の本からその答えを得ることができた!!次回!

 

おまけだけど、宗教に敏感になった私は、旅行をより楽し方法を身に着けたと思う!

北海道・阿寒湖。アイヌは本島の人間が信仰していた八百万の神とは少し違うカムイを信仰している。信仰の違いによるものの考え方がその土地に染みついているように感じられた。

 山岳信仰。山は先祖を弔うところであるから、山神の祭りと祖霊がつながりやすい。山へ行けば仏に会えるという救い。それは中国でも同じだったそう。山で鳥居やお地蔵さまを見かけたとき一礼して感謝の気持ちを伝えようと思った。不思議な力をくれてありがとうって。